牧師のコラム「ボクシ・ボイス」

毎週日曜日に教会でお配りしている「週報」に、横田牧師が載せているコラム「ボクシボイス」をご紹介します。

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ボクシ・ボイス

2022年11月27日
コロナ禍により始まったオンライン礼拝はすっかり定着しました。「災い転じて福をなす」ではありませんが、オンライン礼拝は、Zoom会議同様、教会の画期的なあり方となりました。しかしオンライン礼拝が始まってしてしばらく経った頃、諸教会の牧師たちの口から出てきた心配は「このまま会堂に集まらなくなるのでは」というものでした。NGCの役員会でも同様の心配が挙がりました。ただ、集えなくなったからこそ、集えることの恵み、集うことの大切さを改めて教えられたのも事実です。とはいえ、先日ある方がこう言われました。「オンライン礼拝に甘んじて会堂に行かなくなってしまった。足腰が弱って億劫になったこともあるが、オンライン礼拝がなければ、以前のように普通に歩いて行くと思うのだが。」 正直な思いです。 これに関連して、最近私は「死」について思い巡らす機会がありました。もし死がなかったなら、生きることをそこまで考えていただろうか? たとえば、受験生であれば、受験までの期間を必死になって勉強します。牧師であれば、礼拝説教のために必死になってみことばに取り組みます。私たちは「終わり」や「しばり」があるからこそ、今を生き生きと歩め、大切なことを学び、身に着けることができます。「生」は「死」によって意味が与えられています。逆説の論理です。礼拝についても同じことが言えるのではないでしょうか。さて、役員会では、コロナ禍が終息したら(インフルエンザレベル)、これまでの礼拝CDやDVDの送付と同様、礼拝に集うことのできない方々(申請者)にオンライン礼拝URLを送信するという方向性を検討しています。言うまでもなく、礼拝は共同体の営みであり、一堂に会することが原則ですから。 「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(へブル10:25)。
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2022年11月20日
皆さんは、一生懸命積み上げてきたものが一瞬にして崩れた、という経験はありますか? 最近私はその経験をしました。その中で、内村鑑三の講演録『後世に残す最大遺物』は光となりました。内村鑑三は、後世に残す最大遺物とはお金でも事業でも思想でもなく、勇ましい高尚なる生涯だと述べ、例話として、『フランス革命史』を記したトーマス・カーライル(英国の歴史家)を挙げます。カーライルはこの本を書くのに一生をかけました。何十年もかかってやっと望み通りの本が書けたので、清書して原稿にしました。そんなとき、遊びに来た友人が「面白そうだから、今夜一晩かけて全部読みたい」と言ってきて、感想も聞きたかったのでカーライルは原稿を渡しました。友人は明け方までかかって読み終わり、本を机に置いて寝てしまいました。そこへ家政婦がやってきて、ストーブの火を焚こうとして、机の上の原稿をゴミだと思い、それを丸めてストーブに入れて燃やしてしまったのです。 さて、その事実を知らされたカーライルのショックたるや…。彼は10日間放心状態、その後は猛烈に怒りがこみ上げ、心を落ち着けるためにつまらない小説に読みふけりました。やがて冷静を取り戻したカーライルは自分にこう言い聞かせます。「お前は愚かな人間だ。お前の書いた『フランス革命史』はそんなに立派な本ではない。一番大事なのはお前がこの不幸に堪えて、もう一度同じ本を書き直すことだ。原稿が燃えたくらいで絶望するような人間の書いた『フランス革命史』は出版しても世の中の役に立たない。だからもう一度書き直せ。」 内村鑑三は言います。「カーライルが偉いのは『フランス革命史』を書いたからではなく、原稿が燃えても、同じものを書き直したからです。失敗したり、挫折したりしても、事業を捨てず、気持ちを立て直し、勇気を出して、もう一度事業に取り組まなければなりません。書き直すことでそれを教えてくれたカーライルは、後世にとても大きな遺物を遺したことになります。」
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2022年11月13日
『もしイエス様が市長だったら』(著 ボブ・モフィット)の中に、ぜひ皆さんと共有したいと思った文章があります。「湖のような教会」と「川のような教会」です。「それは教会の立地条件のことではなく、働きにおける思想を表現しています。湖には巨大なものもありますが、その可能性は限定的で、それは大きくなるか、もしくは小さくなるかのいずれかです。さらに、湖には「淀む」危険性があります。これに対して、川はどこかに流れていきます。それは勢いがあり、流路を変えることができ、人々をその流れに場所に運ぶことができます。湖のような教会はひとりでも多くの人を集める場所であり、人々の人格や奉仕における成長よりも、湖のサイズによって成功が定義されます。川のような教会は、その流路にいる人々に影響を及ぼし、その影響は川岸を超えてあふれ流れます。「教会に何人いるのか?」というのが湖教会の質問であり、「来た人々にどんな変化があったのか?」というのが川教会の質問です。「集会に何人が参加したのか?」というが湖教会の思想であり、「その集まりは人々に影響を与えたのか?」というのが川教会の思想です。」(P.220)。私はこの文書にとても励まされ、またビジョンを再確認しました。私たちNGCのビジョンは「川」です。テーマ「砂漠に川を、オアシスを」~“かしら”と“からた”につながり“みたま”によって歩ながら~。 「この川が入る所では、すべてのものが生きる」(エゼキエル47:9)。 聖書のはじめ「エデンの園」からは一つの川が湧き出ています(創世記2:10)。聖書の終わり「新しいエルサレム」の中央にも「いのちの水の川」が流れています(黙示録22:1,2)。そして、その間にある私たち教会は「川」なのです。NGCは、1955年、70歳の森五郎、まつよ牧師ご夫妻の開拓により、桜台の「家の教会」から始まりました。そこから流れ出るいのちの川は、足首、膝、腰に達して泳げるほどに(エゼキエル47章)、その流域は遠く中東にまで広がっています。ハレルヤ。
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牧師:横田義弥

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